晩秋の米百俵の群像

○ 戊辰戦争で三度戦場となり、焦土と化した長岡の町に、明治3年(1870)4月末、支藩の三根山藩(西蒲原郡巻町峰岡)から、米百俵が送られてきました。時の大惨事、小林虎三郎は飢えに苦しむ家中に分配せず、国漢学校設立の資金に充てました。この米百俵の故事から生まれたのが、米百俵の精神です。
 今日でこそそれは長岡市の風土を構築する理念となりましたが、最初から明確に定着したものではありませんでした。やはりそこには先人の偉業を大切にする歩みがあったのです。
○ 上の写真は、紅葉も終わろうとする晩秋の米百俵の群像です。信濃川左岸、長岡大橋の西詰めの南側の千秋が原ふるさとの森の中にあります。長岡市が国からふるさと創生資金の1億円で、平成3年(1991)に建設したものです。
 山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演したときの一場面をブロンズ像で再現したものです。今でも長岡の人々は、米百俵の精神を子々孫々まで伝えています。みなさん、ぜひ一度おいでくださり、この米百俵の群像をご覧ください。
                           2003.12.1  ナガオカ・レッツゴー「オアシス会」 
                                          会長 小森ケン子
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